「信長に”消された”100人」と「愛と信義の人」
を読みましたので、その中の丹羽さんに関する記述をメモしておこうと思います。
■信長に”消された”100人
あまぞんで「丹羽長秀」で検索すると引っかかったので
”えっ!?丹羽さんが消された人として紹介されてるの!?”と
気になって読んだのですが
”消されずに信長を支えた家臣たち”のページに載ってただけだったのでホッとしましたw
ですよね。むしろ消されてるのは最近のドラマやゲームなどの創作物での存在で(略)
内容ですが、特別珍しい情報もなく、丹羽さんの基本的な情報しか載ってませんでいた。
”安土城普請の総奉行も務めた遊撃軍団長”という見出し文で、
「信長の征服戦初期の頃こそ目立った活躍をしてたものの、
その後は遊撃軍としての活動ばかりで、勝家・光秀・秀吉と比べて格下。
最大の功績は安土普請奉行を務めたことで、
もともと吏僚的な性格を残した武将だったのかも。
本能寺後は秀吉の下風に甘んじており、概して優柔不断な生涯」
というような内容で。
…私、丹羽さんって最初から補佐役としての能力を買われて
信長様に仕えてたんだと思うんですよね。
信長様はどんどん新しい事をやろうとするし
家臣もどんどん増やしていくし
その都度バランスをとるような役目を担っていたのではないかと。
なので、戦で先頭に立つ人が少なかった頃には前に立つ事もあるし、
他に優れた武人が加入すれば、その補佐。人員が足りない部署(?)があれば
そちらの応援に回る、というような役目だったのではないかと。
だから、一貫して「補佐」という立場は変わってないので
優柔不断とかいう話ではないと思うのですが。
そもそも、この本の別のページで「信長は戦働きが出来る人だけでなく、
事務面で活躍出来る人も重用していた」と書いてあるのに、
事務メイン(しかもそのうちの一つが安土築城という超重大な仕事)
になったからといって格下扱いにはならないのでは?
…と一人憤慨しておりました(苦笑)
■愛と信義の人
「信義を愛する」武将として丹羽さんが紹介されていました。
こちらは、ちょっとした珍しい情報がありました!
まず、
・『祖父物語』に”(本能寺後)光秀の首と称するものが届いた時、
長秀は光秀の首に食らいつき、歯ぎしりをしながら
「そのほうを生かして、なぶり殺しにするものを…」と言った”
という話が載っている。
とのこと。清須会議以降の丹羽さんの言動については色々逸話がありますが、
光秀謀反についての丹羽さんの感情が語られてる逸話は初めて見たかも。
温厚なイメージのある丹羽さんもさすがにこの時ばかりは
怒り狂っておられたのですね。そりゃそうよね…。
丹羽さんは最後まで信長様の事を信じてついていった家臣の一人だもんね…。
そして
・『川角太閤記』に、”清須会議の時に長秀は
「秀吉の意見は筋が通ってるし、明智を討った功績もあるから」という
理由で秀吉の味方をして勝家を説き伏せ、
その後、やっぱり納得がいかない勝家が秀吉暗殺を企てた時に、
それを知った長秀が秘かに秀吉にその事を伝えに行き、
秀吉の命を救った”
という話が載っている。
らしいです。公正な判断をし、「不正は見逃せぬ」とばかりな行動をとる、
丹羽様、かっこいいです!
そういう流れなら、丹羽さんがこの後も秀吉に味方することになっても
何もおかしくはないですよね。秀吉に調略されたとかそういう事じゃないのです!
ちなみに、丹羽さんが秀吉に暗殺の件を伝えに行く時に”小姓を1・2人つれて”行ったと
書かれてあったのですが、丹羽さんもちゃんと小姓連れ歩いてたんだな~と。
いや、丹羽さん身の回りのこと全部自分でやってしまいそうなイメージがあったものでw
あと、丹羽さんが積聚の痛みに耐えられず自害して、
その腹の中から虫が出てきたって話は
『寛政重修諸家譜』と『丹羽家系譜并年譜』に載っているそうです。
そこからは、「自害した本当の理由は秀吉に味方したことの後悔からに違いない」とか
「勝家と組んでればそんなに悔しい思いはしなかったのでは」みたいな
よく見かける意見が書かれておりました;
この話もどうなんでしょうね、実際…。
秀吉嫌いもしくは勝家好きな方達の勝手な想像なだけな気もします;