今年初更新ですね。
今年もマイペースに長秀さんについて調べていきたいと思います。
よろしくお願いします。
さて、「信長の天下所司代~筆頭吏僚・村井貞勝~(中公新書)」
を読みましたので、長秀さん分析に関係してきそうな記述をメモしておきます。
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最初にこのご本について。
京都所司代・村井貞勝さんについて研究されたご本です。
公家達の日記から分かる村井さんの行動の全てが記載されており
当時の村井さんの仕事ぶりをリアルに感じられることが出来ます。
村井さんは下戸で、趣味は将棋という情報なんかもあったりw
度々、病に伏してる所から信長家臣は軍事面担当部将だけでなく
内政担当の家臣も激務をこなすために体力が必要だったん
だろうなあと想像したり。
また村井さんの話だけでなく、当時の信長と朝廷やその他京都の人々との
関係についても詳しく書かれており、大変興味深く読ませて頂きました。
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では、長秀さんに関係しそうな記述メモです。
・織田家は、信長の曽祖父や祖父が領地を横領して勢力を蓄えていった。
>長秀さんの父親も勝手に斯波家の土地を占領してそこに
住んでましたね。(by丹羽家譜)
尾張では斯波家衰退時にこういう事を行ってた家臣は多かったのでしょうか。
織田家と丹羽家…土地を横領して勢力を伸ばそうとするもの同士だと考えると
敵対関係にあったのではとも思えるのですが、
それがどうして、長秀さんは信長の下につくようになったのか。
丹羽家の方は、最初から、それなりの暮らしが出来る土地さえ
確保出来ればいい程度で、その後誰かの下につくつもりだったのでしょうか。
・永禄12年、将軍御所の建設を開始。
奉行に選ばれたのは村井と島田だったが、
主に信長自身がしばしば出向いて直接指揮をとり
信長ばかりが目立つ普請となった。
>もしかしたら、長秀さんが、小牧や安土築城の奉行を任されてた時も
そんな感じだったのではと思えましたw
信長ばかりが現場で目立って、長秀さんは影でせっせと
費用の算出や、人員・道具の調達などを行ってたのかな、と。
・天正2年の賀茂別雷神社文書の神社の支出を書き記した文書の中に
長秀の名前も頻繁に見られる。
>「長秀へ一斗、樽酒を贈った」みたいな記述があるようです。
なお、長秀さんは、信長が賀茂神社へ書状を送る際の
副状の発給を担当していたそうです。
だから長秀さんと関わる事も多かったのでしょうね。
・天正3年、村井と長秀、京都で徳政令の執行を命じられる。
そのために二人の下代達が色々と動いてる様子が
史料に記録されている。
>「信長公記」には”命じられた”という情報しか載ってませんでしたが
別の史料にはその仕事ぶりも記録されているようで。
・天正3年4月~8月の間(おそらく7月3日、信長が家臣達に官位や
姓を賜った頃?)から信長の尊称に変化が。家臣達の書状の中で、
信長の呼び方が「殿様」から「上様」に。
>普段の呼び方も、「殿」から「上様」に変わったのでしょうね。
しかし、安土築城開始(天正4年1月)より前なのですね。
安土城に住むようになってから「上様」と呼ばせた、という方が
流れ的には自然な気がするのですが。
みんなから「上様」と呼ばれるような人物が
建設現場で走り回ってたと思うとなんだか違和感がw
・天正五年、秀吉と光秀が合戦で目覚ましい戦果をあげている間に
安土は城郭ばかりでなく城下町も着々と形作られていた。
>方面軍の部将達が戦場で華々しく活躍している間、
長秀さんもまた、天下人のための城づくりという大役を
せっせとこなしていたのだなあと、改めて感じた一文でした。
・天正7年11月22日、実仁親王の二条新邸行啓の奉行を
村井・長秀・藤孝・光秀が務めた。
>こちら、出典が「信長公記」となってたのですが
私の手元にある「現代語訳版・信長公記」には見当たらず…。
原文にはあったのでしょうか?
・京都馬揃えの色々な準備は村井貞勝が担当。
信長の衣類・道具や馬場の整備などを行った。
>史料に、村井さんが吉田兼見さんに道具類を自慢気に見せてた
という記述があるそうです。ちょっとかわいいv
織田家臣にとってお馬揃えは楽しい行事だったのでしょうか。
一番手を任された長秀さんも
「わし、一番手だよ!」って家臣達に嬉しそうに報告してたんでしょうか。
それとも責任の重大さに胃を痛めてたのでしょうかw
…以上です。