「織田信長総合事典(岡田正人著・雄山閣)」内の
長秀さんに関する記述で気になった部分のメモです。
■”長重が信長の娘との縁組が決まったのは、
信長存命中の、天正8年、長重10歳、娘7歳の時。
結婚は、天正10年7月、秀吉の介添えによって行われた。
出典は丹羽歴代年譜”
>「丹羽家譜」には、結婚の話は載ってましたが
婚約の話は載っておりませんでした。
…勝家とお市の結婚も秀吉が執り行った説がありますし、
信長没後の織田の重臣達と信長の娘との結婚は秀吉の策略の一つで、
でも、その策略に乗って結婚してしまった事にしたくなかったので
後付で「実は前から婚約してた」って話を作った可能性が…?
と考えてしまいました;
でも本当の方が嬉しいですね。
丹羽家は信長様に大切にされていたんだと思いたいです。
ちなみにページによっては「長秀の死後に結婚」と書かれてる箇所が
ありましたがこれは間違いですね。天正10年の時点では
長秀さんはまだまだ生きています;
■”長秀の初陣は1553年海津表の戦い”
>これも間違いです。丹羽家譜によると1552年の海津(萱津)の戦いが
初陣です。”海津”と記載されてたことで読み間違ったのではと。
初陣の1年差は大分違ってくると思います;
ちなみに利家の初陣もこの戦らしいので、この時期前後に信長の近習に
なった家臣達を一斉に出陣させたのかも知れませんね。
なお、現在wikiにもこの間違った初陣が記載されてます;
この書籍から情報をもってきたという事なのでしょうか…。
■”姉川の戦いでの長秀の活躍について。
浅井軍が信長本陣まで迫っていた時に、
横山城の押さえに残されていた長秀が急を聞き駆けつけ
挟撃された浅井軍は総崩れとなった”
>姉川でこんな大活躍してたんですね!初耳かもです!
信長の危機を救った上に、浅井軍に大打撃を与える!
この話はもう少し詳しく調べてみたい所です。
この合戦の後の志賀の陣でも、長秀さん、信長の危機を聞いて
佐和山包囲中の所、駆けつけてきましたし。
信長様の危機とあらばどこへだって飛んで行く
正義のヒーロー的な長秀様、かっこいいですv
■”本能寺の変の話。甲州征伐から凱旋した直後の信長は
まだ中国遠征を考えておらず、信孝&長秀を赴援するため
淡路に行く予定だった。その事が分かる文書が残っている”
>これも初耳でした。
でも確かに四国遠征は初めて信孝が総大将を務める戦になる予定でしたし
戦略的にも親心的にも心配でしょうし、信長がそちらの様子を見に行くのは
当然な気がします。
秀吉の援軍要請がなければ、光秀に加勢の為の軍勢を組ませたり
信長が本能寺へ行く事もなく、あの事件も起こらなかったのでしょうか…。
そう考えると秀吉を恨む気持ちが少し芽生えてしまいます;
■”本能寺の数日後、信長の側室・お鍋の方が、長秀に送った文書が存在する。
まず崇福寺に、信長・信忠親子の位牌を安置し、諸人の違乱を禁止するように、
という文書を送り、その後に、長良に在陣した長秀に同じく同寺に対する違乱防止を
求める文書を出した、というもの”
>すでに寺に文書を送ったのに、わざわざ長秀さんにも、たまたまその近くに居たという
理由があったにせよ文書を出したという事は、お鍋の方と長秀さんは
普段からそこそこ交流があったのかな、と思いました。
長秀さんも信長の娘(養女ですが)を娶ってますし、織田親族としての
付き合いがあったのではと…。
ちなみにネットの噂によると、この文書を送ったのはお鍋の方ではなく帰蝶、
という話もあるようですが、私には判断できません;
…以上です。