「名将言行録(岩波書店・近代デジタルライブラリーにて拝見)」の
長秀さんの項目の記述メモです。
内容をざっくり箇条書きにしてみると
・長秀さんの基本情報(生没年など)
・織田の双璧だった話
・米五郎左の小歌
・官職を断った話
・本能寺後に信孝と共に信澄の首をとった話
・賤ヶ岳の戦に救援に駆けつけた時の話
・長秀さんの最期
という感じで。
それぞれの詳細は大体wikiに掲載されてるものや
一般的に広まってる話と同じでした。
さすがに、現在、広く知れ渡ってる武将の逸話の多くは
こちらの本が出典であるというだけありますね。
語られる人物像も、
質直で(この言葉って”地味”って意味も含まれてますよね;地味っていうなー!><)、
信義の厚さ故に敵味方問わずどんな人にも好かれ、
織田家で勝家と並ぶほど武勇にも優れ、
米五郎左といわれる程、織田家になくてはならない人物…
…とまぁ、こちらも一般的な長秀さんのイメージそのままだと思われます。
■で、ちょっと気になった所を拾い上げてみます。
>天正3年に官職(壱岐守)を断った話。
こちらの本には、断った理由は
「若い頃から皆に呼ばれ、覚えられている、五郎左衛門のままで居たい」
という記述しか載ってないようで。
「官職なんて恐れ多い!」とか、「官職なんてくだらないぜ!」みたいな
感情の部分は一切記載されてないので、
何を思って断ったのかこの記述だけでは分かりませんね。
現在の歴史まとめ本などに感情の部分も載せてる場合は
その記事を書かれた方個人の意訳の可能性がありそうです。
私には、「五郎左衛門って名前が気に入ってるので!」
という単なるワガママにも思えてしまうのですがw
順従な長秀さんだってたまにはワガママ言いたいんだよ、とか。
信長相手にワガママ言えるとか、それ程二人は仲が良かったんだよ…などと。
ちなみに丹羽家譜によると、官職の話は他の家臣達より一足早い、
天正2年の蘭奢待切り取りの時であり、
壱岐守を名乗る事は辞退したけど、従五位下には叙されたとなっていました。
これは、身内持ち上げの一つなのか事実なのかどちらなのでしょうね…。
>長秀の最期
こちらの本の中では、”長秀は、秀吉が信雄をもしりぞけ、
自らが盟主になろうとし出してから、内心穏やかではいられなくなった。
秀吉を倒して織田家を再興させようにも
その力が自分には無い事を心に病むようになった。
で、以前から患ってたガンが悪化し、ほとんど起き上がる事が出来なくなった時に
「私の命を奪おうとするこいつも敵だ!」と言って腹を割いて死んだ。
その腹の中から、奇妙な塊が出て来たので、
その噂を聞きつけた秀吉が、医師の竹中法印に保管させた”
…と、そのような話になっておりました。
前半の話はさておき、後半の長秀さんのお腹の中から出て来た塊の話は、
wikiに書いてある「秀吉譜」と話が似ているのでそちらが
元ネタなのでしょうか。
こちらの話だけだと、秀吉が噂を聞きつけるまで誰がどうして保管していたのか、
保管してたとしても何故その後の扱いを身内でもない秀吉に任せたのか、
など謎な部分が多いのですが、
そちらを見ればもう少し詳しい経緯が書いてあるのですかね。
以上です。