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ニワか知識で語ります。

戦国ブログ。大好きな武将・丹羽長秀様について真面目に調べたり考察したり、時に不真面目な妄想をしたりしてます。

「丹羽家譜」メモ1。長秀の家族について。

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「丹羽家譜」メモ1。長秀の家族について。

「丹羽家譜(東大史料編纂所DBにて拝見)」の
長秀さんに関係する箇所を読みましたのでそのメモを残しておきます。
長くなりそうなので、まずは「家族について」まとめておこうと思います。

なお、原文は古文であり、訳は自力で行ってますので
間違った解釈をしてる部分が結構あるかもしれません;


出来るだけ短めに、要点のみ記載しておきます。
※のついてる文章は個人的見解による註釈です。

■長秀の祖父・父・母

・忠長(祖父) 丹羽を名乗り始めたのはこの方から。
尾張児玉村に住む。斯波家に仕えるも、進んで武功を上げようとはせず
手持ちの豊富な財産を元手に商いで生計を立てようとしていた。

・長政(父) この代から徐々に家運が開けてきた。
尾張の児玉村に生まれるが、壮齢訳あって武蔵国の児玉村に移住する。
その後尾張に戻り、斯波家に仕え、武功を上げる。
斯波家が衰退した後は、その領地を侵略し児玉村に城郭を築いて
そこに住む。天文18年4月14日没。
(※長秀さんが信長に仕えた年です。仕える前か後なのか気になる所)

・長秀生母
能呂氏の女。それ以上の情報はなし。

■長秀の兄弟(長秀含めて男3人・女3人)

・長忠(長男)
児玉村に産まれ、幼年斯波に仕える。早世。跡継ぎも無し。
(※幼年から仕えていたという事は小姓だった可能性が?
元服後の名前があるので、早世といえども
元服するまでは生きていたという事なのでしょうか)

・長秀(次男) 丹羽家初代。
天文4年9月20日、児玉村に産まれる。幼名、万千代。
天文18年に信長に仕えて、五郎左衛門と名乗る。
天正13年4月16日、北ノ庄にて卒。
(※斯波家に仕えた事は一切無く、初めての仕官相手が信長だった模様)

・秀重(三男)
児玉村に産まれる。生年月日不明。
長秀・長重二代にわたって仕える。一男一女を設ける。
元和元年、大阪の役にて戦死。享年70前後。
(※逆算すると生年は1545年前後?長秀と10歳差ぐらい?)

・娘その1
越前住人、松原伊賀守の室。
一男を産み、その子は長秀に仕える。
その子を最後に、松原家断絶。

・娘その2
初め大津伝十郎正継(信長馬廻)の室、
正継没後、蜂屋頼隆(同じく信長馬廻出身)の室となる。
子が生まれず、長秀の四男・元時を養子にする。
しかし元時は早世し、蜂屋家は断絶した。

・娘その3
浅見宮内少輔忠貫の嫁となり、一男を産む。
その子は忠政と名乗り、長重に仕え、丹羽氏を授けられる。
忠政、元和元年、大阪の役にて秀重と共に戦死。
その子孫は続いた。

(※ちなみに長秀父が天文18年に死去しているので
この子供達は全員その年以前に産まれたという事になります。)

■長秀の室

正室=信長の養女で信広の娘。
側室1=堤右衛門尉教興の姉。
側室2=杉若越後守(元朝倉家臣?)の娘。

他に姓氏未詳の側室が何人か居るようです。

■長秀の子供達(男6人・女8人)

・長重(長男) 幼名:鍋丸。 丹羽家二代目。
元亀2年4月18日、岐阜で産まれる。母は信長の養女で信広の娘。
長秀没後、その領土をそのまま引き継ぐが、
紆余曲折の末(※ここに書ききれない程波瀾万丈すぎる人生のため
詳しくはwikiなどでご確認ください)
奥州白河の地で10万石余りを領する。
寛永14年3月4日、江戸桜田の上邸にて卒。享年67。
(※現代まで続く丹羽家の二代目。
その息子の光重が二本松に転封となり、
以後、丹羽家はその地に定着するようになるようです。
そこから先は二本松について研究されてる方々がお詳しいかと)

・長正(次男) 幼名:宮松。
天正4年、佐和山で産まれる。母は堤教興の姉。
越前で5万石を賜るが、関ヶ原の役後、その領地は没収。
寛永7年4月4日、福井にて卒。享年55。
その子孫は代々丹羽家に仕える。

・高吉(三男) 幼名:仙丸。
天正7年、佐和山で産まれる。母は杉若越後守の娘。
天正10年に秀吉の養子となり、その後秀長、
さらに後に藤堂高虎の養子となり、伊賀名張の城に住む。
寛文10年7月16日、名張にて卒。享年92。子孫有り。

・直政(四男) 幼名:未詳。実名、初め元時。
天正8年、佐和山で産まれる。母は姓氏未詳。
長秀の娘婿、蜂屋頼隆(信州水内の郡、飯田城主)の養子となる。
家督承継後に早世。

・長俊(五男) 幼名:未詳。
天正10年、坂本城で産まれる。母は高吉同腹(杉若越後守の娘)。
慶長7年に徳川の幕下に列するが、後、病によって退身。
慶長17年11月23日卒。享年30。
一男あり、その子は丹羽家に仕え、子孫相続する。

・長紹(六男) 幼名:熊千代。
天正11年、越前府中の城で産まれる。母は姓氏未詳。
慶長8年に徳川秀忠に従う。
元和5年8月24日、伏見の旅亭にて卒。享年37。
子孫は徳川家の幕下に列する。

・娘1
母は姓氏未詳。長重の姉。
山田修理源高定(始め斯波家、後長秀に仕える)室。
一男を産み、その子は丹羽氏を授けられ、その子孫は丹羽家の腹心となる。
寛永9年8月20日卒。

・娘2
母は姓氏未詳。長重の姉。
伊木豊後守(始め森寺秀勝と名乗る。元斯波家臣、後恒興に仕える)室。
一女を産み、池田利隆(恒興の孫)の息子を養子にする。
(※この豊後守=忠次とする説があるようですが、wikiの忠次の項目には
長秀の娘を嫁にしたという情報や、養子の話は載っておらず。
私見では忠次の事とは思えないのですが…?)

・娘3
母は姓氏未詳。長重の姉。
種橋成章(長秀家臣)室。
(※成章は元亀元年10月卒。志賀の陣の時に長秀が
信長の救援に向かう途中の戦で長秀を守って戦死してます。
家譜には載ってませんが、wikiによると息子が居た模様)

・娘4
母は信長の養女。長重同腹の妹。
稲葉典通(稲葉一徹の孫)室。一男を産む。
元和2年3月10日卒。

・娘5
母は堤教興の姉。長正同腹の姉。
青山宗勝(長秀家臣)室。一男を産む。その子は丹羽家に仕え
その子孫は続く。
寛文8年11月16日、二本松にて卒。享年94。
(※天正3年生まれか)

・娘6
母は堤教興の姉。長正同腹の妹。
古田大膳大夫重勝室。一男を産む。子は重恒と名乗る。
重恒は後、訳あって封土を没せられ、娘は丹羽家に戻る。
寛永11年9月12日、江戸の邸にて卒。
(※古田大膳大夫は重治なので重治の間違い?
しかし重恒は重勝の実子で間違いなく、でも後に重治の養子になっており…。
どちらが正しいのか不明です;)

・娘7
母は姓氏未詳。長紹同母の姉。
赤田隼人正源正(近江丸茂の城主)室。一女を産む。
慶長19年9月23日、その地で卒。

・娘8
母は姓氏未詳。長紹同母の姉。
粟屋勝久(若狭武田氏旧臣。のち長秀の与力となる)室。
一女を産む。承慶3年7月14日卒。

===

長秀さんの子供達の生まれた年と生母をまとめるとこんな感じでしょうか。
(クリックで拡大します)


最初の女子三人と直政の母親は詳細が全く分からないようですが
産まれた時期的に、女子三人と直政はそれぞれ別の母親と
考えるのが自然かな?
だとすれば、側室は合計で5人居たということになりそうです。
そこそこに多いと思われますが、大大名故なのか…
意外と女好きだった可能性も否めないかも知れませんw

さらに最初の三人の女子のうちの一人が
1570年に戦死している種橋さんに嫁いでる事から、
その直前に結婚したとしても、その子は1560年頃には産まれてなければ
おかしいので(女性の初婚平均を10歳と考えた場合ですが)
もしかしたら、長秀さんには信長の養女を娶る(1563年)より前に
すでに嫁がおり、三人はその嫁の子なのではと思えます。
長秀さんが29で初婚というのも遅いと思いますしね。


以上です。

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自己紹介:
2012年頃から戦国時代に興味を持ち始めたまだまだ戦国知識初心者です。 気になってる武将:丹羽長秀様と織田家・北条家と風魔一族。

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