戦国ブログ。大好きな武将・丹羽長秀様について真面目に調べたり考察したり、時に不真面目な妄想をしたりしてます。
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■はじめに | |
・本書内の説明によると丹羽家譜は、”「藩翰譜」「続藩翰譜」の記述を基本とし | |
その他数本を比較しつつ、補足説明や間違いの指摘などを付け加えて書き上げた” | |
ものらしいです。丹羽家に伝わる話のみをまとめたという訳ではなさそうです。 | |
・基本的に、主語がない行動は長秀のもの、命令や褒美をくれる相手は信長、として | |
書いてます。 | |
・戦は「信長公記」と被る記述が多いので | |
家譜ならではの記述があるもののみ記載しています。 |
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==長秀年表== | |
丹羽一族は桓武天皇第17の皇子良峯安世卿32世の末裔。 | |
長秀はその33代目であり中興創業の祖である。 | |
■1535年(天文4年) | |
9月 | 20日。尾張国丹羽郡児玉邑に生まれる。 |
幼名は万千代。(※藩翰譜では万千代丸となってるそうです) | |
■1549年(天文18年・長秀15歳) | |
月不明 | 信長に仕えて、五郎左衛門と名乗る。 |
(※4月14日:長秀の父・長政が亡くなる。↑より前か後かは不明) | |
■1552年(天文21年) | |
8月 | 萱津の戦に参加。功あり、采邑(領地)を増し賜る。 |
■1560年(永禄3年) | |
5月 | 桶狭間の戦いに参加。 |
長秀は先駆けして信長と共に熱田に至る。 | |
斬首若干、戦功群を抜き、これを賞され | |
過分の采邑を増し賜り、母衣の騎士を預けられる。 | |
■1561年(永禄4年) | |
5月 | 美濃攻めにて大いに戦功をあげる。 |
■1562年(永禄5年) | |
5月 | 数面の武功を賞され、群邑1万貫を増し賜われる。 |
以後、評定衆に加えられ、軍事民政を預かる。 | |
さらに、信長、姪(異母兄信広の娘)を養女とし、長秀の嫁とさせる。 | |
長秀、織田家の一門となる。 | |
■1564年(永禄7年) | |
8月 | 濃州稲荷山の城を攻める。敵首数級を取る。 |
■1568年(永禄11年) | |
8月 | 28日。信長、義昭を伴い上洛。長秀先駆けする。 |
この時に長秀、初めて義昭に謁見する。 | |
■1569年(永禄12年・長秀35歳) | |
8月 | 伊勢の国主・北畠具教討伐に従軍。 |
池田信輝・稲葉良通と大河内の城を攻める。 | |
城将降伏し、その戦功により、濃州の内数邑を増し賜われる。 | |
■1570年(元亀元年) | |
2月 | 信長の上洛に従う。 |
4月 | 信長の命で、堺で名器・古書を買い集める。 |
その価格の倍の代金を支払ったのでみな大いに喜んだ。 | |
4月 | 金ケ崎の戦い。 |
信長が朽木谷を経て京へ撤退する際に、長秀、光秀と共に命を受け | |
若狭に行き、武藤景久に質を要求する。(武田義純に備えるため) | |
途中一揆勢に襲われ危機に陥ったが、家康に助けられ | |
二人は無事京に戻る。 | |
6月 | 28日。姉川の戦い。長秀は横山の城の押さえとなる。 |
7月 | 佐和山の城に備えるため百々屋敷に入る。 |
この時、佐々木の軍に襲われるがこれを撃退し、首を岐阜に献上する。 | |
10月 | 志賀の陣。長秀、信長の兵を助けようと、横山城にいる秀吉に |
使いを出し、共に信長の元へ向かう。 | |
途中、敵兵と激戦となり、長秀の家臣であり娘婿である種橋藤十郎が | |
長秀を守って戦死。後、どうにか信長の元へ到着し、 | |
隊長の首10余級を献上。信長これを感賞する。 | |
月不明 | 尾張美濃の一部と若狭半国を与えられる。 |
■1571年(元亀2年) | |
正月 | 佐和山城主・磯野秀昌が長秀に降伏。 |
2月 | 信長、功労を賞し、佐和山の城を長秀に与える。 |
かつ、采邑5万貫を増加し、寄騎の兵若干を付けられる。 | |
これまでに与えられたものと合わせて采地18万石となる。 | |
(信長に仕え始めてからこの日まで約11回、軍功を上げていた) | |
”織田の丹羽柴田を知らぬ人など居ない”と言われるようになる。 | |
8月 | 信長、浅井の山本山城を攻めた後、佐和山に来訪。 |
長秀はご馳走でもてなし、信長を大層喜ばせた。 | |
■1572年(元亀3年) | |
3月 | 信長、浅井を討つため江北に出兵。横山城一泊後、山本山城攻略へ。 |
この時、休憩中の信長の元に長秀・秀吉・勝家が参上し | |
4人揃って、山の上から、長秀家臣・江口正吉が見事な一騎打ちを | |
繰り広げているのを目撃。信長はこれを賞し、江口に | |
自ら帯びる笄(こうがい)を手ずから贈り、長秀はこの事を大層喜んだ。 | |
月不明 | 信長、尾州海東郡にて鷹狩を行った時に、 |
里長に領地を掠奪されたと泣く老婦に遭遇する。長秀にその真相を | |
糾明させ、里長を改易、老婦へその地を返した。 | |
長秀は更に、国中の民の悩みも聞いて周り、それを信長に報告した。 | |
■1573年(天正元年) | |
足利義昭、信長に対して挙兵。合戦後、和睦。 | |
4月 | 長秀、命を受け、密かに大津で工匠を集め、船十余艘を造る。 |
7月 | 1日。義昭、再び槙島城にて挙兵。長秀、これを聞き、信長に報告。 |
信長、5日に岐阜を出て佐和山に泊まり長秀と議す。 | |
翌日、造った船で坂本へ。7日、兵を進め二条城を囲み、落とす。 | |
後、槙島へ。長秀、請うて先鋒となる。 | |
17日、義昭降伏。長秀の勲功大いに賞せられる。 | |
8月 | 一乗谷の戦い。 |
長秀、木下・柴田・佐久間らと高月に布陣、刀根山に備える。 | |
18日、陣を越前の府中龍門寺に戻す。長秀は先鋒。 | |
朝倉家一族死亡。 | |
この時、義景の長子・愛王丸が家宝を携え、長秀の軍門に下る。 | |
長秀、助命を乞うが信長は許さず、愛王丸は殺害された。 | |
続いて小谷城の戦い。 | |
長秀、諸将と共に虎御前山の城を厳重に囲む。 | |
浅井長政、自刃し一族皆死亡する。 | |
後に、長秀、この度の勲功を賞せられ、浅井領を増し賜われ | |
さらに、愛王丸が携えていた、茶壺(唐代の製「木枯らし」) | |
幕(幕章、三木瓜朝倉家)墨跡一軸(清茂の筆)を賜われる。 | |
以後、これらを家宝とし、三木瓜を当家の徽章(旗印?)とする。 | |
■1574年(天正2年・長秀40歳) | |
正月 | 元旦。信長、功績の有る諸侯を召し、餐膳を賜う。 |
席順は、信忠・信雄・勝家・長秀、以下数名。 | |
餐応の後、各自に新身の名刀を賜う。 | |
3月 | 信長、上洛する。長秀も従い、蘭奢待を賜われる。 |
この時、長秀、従五位下に叙される。 | |
(壹岐守に任ずるの命もあったがこれは辞退した) | |
■1575年(天正3年) | |
4月 | 村井貞勝と共に京都公家領徳政令の事務を執り行う。 |
5月 | 長篠の戦い。長秀は、信長の右翼に備う。 |
内藤・原と戦う一益の危機に、秀吉と共に駆けつける。 | |
8月 | 越前の朝倉家残党討伐。長秀も従軍。大いに戦功をあげる。 |
12月 | 惟住姓を賜る。 |
この時、秀吉、筑前守に任ぜられ、長秀と勝家から | |
一字ずつもらい、羽柴と名乗る。 | |
■1576年(天正4年) | |
正月 | 安土山に築城を開始。長秀、監督に任ぜられ昼夜励む。 |
4月 | 城郭が完成。信長、これを居城とする。 |
長秀、再び命を受けて天主を築く。 | |
(後に光秀、命を受けて天主の記録を書物にまとめる) | |
信長、長秀の築城の速さを賞し、珠光の茶碗及び駿馬2匹を賜う。 | |
さらに、惟住姓を平と改称し、織田の瓜章を賜われる。 | |
(この時、光秀も惟任氏平姓を賜り、日向守に任ぜられる) | |
…後半へつづきます。 |
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