戦国ブログ。大好きな武将・丹羽長秀様について真面目に調べたり考察したり、時に不真面目な妄想をしたりしてます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
==長秀年表・後半== | |
■1577年(天正5年) | |
2月 | 雑賀の一揆を討伐。長秀も従軍する。 |
■1578年(天正6年) | |
4月 | 一益・光秀と共に丹波で荒木山城守と戦う。 |
30日。諸将と播州上月の城を囲んで秀吉を救う。 | |
6月 | 16日。一度兵を収め、翌日兵を播州神吉に進めて城下の民家を破る。 |
7月 | 15日一益と神吉城の東郭に入る。翌16日荒木が守る中郭を破る。 |
次に、志方城を攻め、落とす。 | |
11月 | 荒木村重謀叛。信長、これを討とうとする。 |
14日長秀、兵を進めて伊丹城下を焼き、刀根山に陣する。 | |
後に蒲生・蜂屋と貝野の砦を守り伊丹の賊に備える。 | |
12月 | 長秀、伊丹の城を攻めるためにまず塚口の支城を守る。 |
■1579年(天正7年) | |
6月 | 信長、村重攻め中の将を労う。青山興三を使者とし |
鷹三羽、帷子20領を長秀に賜う。 | |
9月 | 16日。さらに駿馬2頭を賜う。 |
11月 | 長秀、滝川・蜂屋と命を受けて伊丹城兵の妻子122人を捕らえて |
尼崎七本松に磔にする。 | |
■1581年(天正9年) | |
3月 | 信長、長秀家臣・溝口秀勝に、若狭の地、五千石を賜う。 |
”以後も変わらず長秀によく尽くすように”との言葉もあり。 | |
(秀勝:長秀が幼少の頃から仕えており、長秀の一字を賜って秀勝と名乗る) | |
6月 | 長秀、良馬2頭を賜われる。 |
12月 | 23日。秀吉が、播磨より安土に来て歳末を賀す。この日、 |
信長、秀吉に餐宴を賜い、その宴の後、秀吉と長秀を茶亭に招き | |
天下草創の密事を議す。 | |
■1582年(天正10年) | |
2月 | 甲斐武田征伐。 |
長秀も一方の将として諸城を破る。 | |
4月 | 信長、関東を遊覧しつつ帰る。一益、旅館経営の事を任せられる。 |
この時長秀、湯治の暇を乞い、草津温泉へ。 | |
信長、このために長秀に黄金百両及び馬の飼料を賜う。 | |
4月 | 21日。草津温泉から帰り、安土へお礼に行った時に |
四国遠征の話を聞く。(信孝が大将、副将に長秀及び信澄・蜂屋) | |
5月 | 12日。諸将四国へ向けて出発。21日。大阪に到着したが、暴風により |
船が出せず、ここに滞在する。 | |
(この頃、長秀と信澄の二人は大阪の城代だったという説があるそうですが | |
丹羽家譜にはその記述はないとのこと) | |
6月 | 本能寺の変。 |
信長・信忠が光秀によって殺されたという報を聞く。 | |
長秀、信孝と共に光秀を討つ計画を立て、大阪城を信澄に守らせ森口へ。 | |
しかし、信澄が明智と通じており、背後から長秀達を討とうと計画して | |
いる事を知り、引き返し、信澄を討つ。 | |
その首を獲ったのは、長秀家臣・上田重安(当時16歳)、6月6日のこと。 | |
その後、京都へ向かおうとしたが一揆勢に阻まれ、大阪に戻る。 | |
11日 | 秀吉、光秀を討つため、中国から尼崎に到着。 |
信孝・長秀、会いに行き、戦の計画を立てる。 | |
高山右近先陣、中川清秀2陣、池田信輝3陣、長秀4陣、信孝5陣、秀吉6陣。 | |
13日 | 山崎の戦い。 |
光秀は逃亡し、坂本城に行く途中で里人に殺される。 | |
その後 | 長秀、秀吉ら諸将と共に清洲へ。後に勝家も来る。 |
ここで、秀信(三法師君・当時3歳)を織田家の後継ぎと決める。 | |
秀信を安土に移し、長谷川・前田に守らせ、近江30万石を管轄とする。 | |
織田の領地再配分。 | |
長秀は、若狭全国及び近江滋賀高島の二郡を領し、坂本の城に移住する。 | |
(坂本は最初、秀吉に与えられるはずだったが、秀吉が固く辞退して | |
長秀に譲った。その事が分かる文書が存在するとのこと) | |
(この時、長秀は大溝へ移住したという説や、この日までは | |
若州青井に住していたという説もある模様。 | |
なお、丹羽家譜では、長秀は大溝を居城とし、嫡子・鍋丸に坂本の城を | |
守らせる、となっており、青井を居城としていた話は載ってないそうです) | |
さらに、長秀、諸将(秀吉・勝家・恒興)と議し、 | |
各家臣一人を京都の警護に当たらせる事を決定。 | |
長秀は老臣・江口正吉にこの任に当たらせる。 | |
(夏秋頃) | (長重年譜より:秀吉の介添えにより鍋丸、信長の娘と結婚する) |
10月 | 勝家・一益ら、秀吉の威権が日に日に大きくなるのを見て |
信孝を誘い、秀吉を殺害しようと計画する。 | |
信孝、長秀に使いを出し、こちらに組するよう誘うが、長秀は答えず。 | |
その後、勝家から度々誘いの文書が送られて来たが、断り続けた。 | |
(※ここで、この対立に関する長秀さんの嘆きが長々と語られてますが、 | |
ここでは割愛します。要訳すると、「勝家達は秀吉に嫉妬してるだけでは? | |
秀吉は織田家に対して忠義をつくしてるよ!でもその義がいつ曲がるか | |
不安に思える所もあるんだよなあ…。何にしろ今は身内で争ってる場合じゃ | |
ないだろ…。」みたいな感じです) | |
その後 | 秀吉と勝家、一旦和議を結ぶ。 |
(※お互い偽りの和解だと理解している描写あり) | |
12月 | 秀吉、長秀と岐阜に赴いた時に、信孝に不良の事があり、 |
岐阜を攻めようとする。 | |
信孝、長秀に頼って和を乞う、秀吉これを許す。 | |
(この時、信孝の母及び信長の庶子を岐阜から安土に移すように言われ | |
信孝は承諾した) | |
■1583年(天正11年) | |
2月 | 勝家、背盟の色あり。秀吉、長浜でこれに備える。 |
長秀、嫡子鍋丸に塩津海津口を守らせ | |
自らは坂本の城で敦賀の兵に備える。 | |
4月 | 17日。秀吉、濃州へ向かう。長秀、この隙に勝家が攻め込む事を懸念。 |
20日。兵を率い、軍船に乗り江北に赴く。 | |
船の上からすでにいくつかの砦が落とされているのが見え、 | |
家臣に坂本に戻るよう言われたが、承諾せず、 | |
そのまま助けに行き、形勢を逆転させた。 | |
その後、この急を聞き駆けつけた秀吉と合流。 | |
22日。秀吉と共に北ノ庄を囲む。勝家、自尽する。 | |
長秀、柴田勝敏(勝家の長子)と佐久間盛政を捕らえ、秀吉に送る。 | |
この戦の長秀の部将は丹羽秀重、坂井直政、戸田勝成、 | |
江口正吉、大谷元秀。鍋丸の副将は溝口秀勝、村上義明、長束正家。 | |
さらに、この戦は、秀吉と勝家の雌雄を決するだけではなく、天下二分の | |
戦いだといわれ、世の人はみな「長秀が組した方が国家を掌中に | |
収めるだろう」と噂していて、本当にその通りになった。 | |
5月 | 1日。秀吉、北の荘にて、長秀に、これまでの協力と |
この度の戦の功労を謝す。 | |
(長秀の手をとって涙ながらに感謝した、という描写あり) | |
若狭全州近江二郡に越前全州、加賀二郡(能美恵那)を付け | |
越前守に任ぜられる。采地、123万石余りとなり、北陸の藩鎮となる。 | |
(越前守:一説には天正12年に長秀が上洛した時に | |
秀吉の取次で任ぜられたともいう) | |
この頃 | 長秀、鍋丸を誘って秀吉の元へ行った時に |
秀吉、鍋丸に勝敏が所持していた名刀・青江を賜う。 | |
(字名はニッコリ。切れ味が非常にするどく、切られた相手はその事に | |
気付かずニッコリとしながら6・70歩歩いた後に、体がバラバラになる | |
という所以からその名がついた) | |
長秀、北ノ庄城に移住し、長重(鍋丸)に府中城を守らせる。 | |
(この頃) | (長重年譜より:鍋丸、元服し、五郎左衛門尉長重と名乗る) |
■1584年(天正12年) | |
2月 | 下旬。長秀、1万3千ほどの兵を率い、長重と共に上洛する。 |
秀吉、これを郊外で歓迎し、共に京に入り餐応する。 | |
この時に、秀吉、信雄と不和になり、尾州で挙兵の動きがあり、 | |
家康も援軍として三河を出発している、と話し | |
これと戦うため、長秀に援軍を要求。 | |
長秀、やむをえず承諾し、そのまま尾州へ向かう。 | |
途中で、長重に兵5千を与え越前に帰らせ、 | |
自ら兵8千を率い、尾州小松寺山に備える。 | |
この戦、常に秀吉劣勢、長秀が一戦を交える前に信雄と和睦、 | |
故に長秀は越前に帰る。 | |
その後 | 秀吉、長秀に使いを出し上洛を促すが、長秀は病を理由に断る。 |
9月 | 佐々成政が末森の城(利家の家臣が城主)を攻める。 |
長秀、家臣の村上義明、溝口秀勝を派遣し利家を助け、佐々の軍を破る。 | |
■1585年(天正13年) | |
正月 | 長秀、病に伏せる。 |
3月 | 秀吉、内大臣に任ぜられ、度々長秀に上洛を促すが病を理由に断られる。 |
4月 | 14日。容体が悪化する。 |
長重に遺旨を、家臣に今後のこと伝え、 | |
(秀吉の命令を守り、国家の平和を守るように。決して別心を | |
抱いてはいけないよ。長重もまだ幼いんだからね、というような内容) | |
さらに、長束と成田を使者とし、遺書(長年の交誼の厚さへの感謝と、 | |
子供達と家臣の事をよろしく頼む、というような内容)と | |
三品の遺物(荒身藤四郎作の短刀、大郷作の刀、虎の絵)を秀吉に贈る。 | |
その後、静かに死を待つ。 | |
16日。北ノ庄城にて卒す。享年51歳。 | |
城下總光禅寺に葬られる。 | |
廟号は總光寺、法諱は大隣道称は宗徳大居士。 |
ただいまコメントを受けつけておりません。