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ニワか知識で語ります。

戦国ブログ。大好きな武将・丹羽長秀様について真面目に調べたり考察したり、時に不真面目な妄想をしたりしてます。

「信長公記」と丹羽さん(後編)

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「信長公記」と丹羽さん(後編)

「信長公記」の丹羽さんの記述、後編です。
1576年以降の話になります。


■1576年
1月 中旬。安土山に築城を開始するよう、命じられる。
2月 23日。信長、安土城に移る。
 (昨年末に、信忠に家督を譲り、岐阜城から佐久間信盛邸に移っていた)
城の普請が信長の意にかない、褒美に名物「珠光茶碗」を賜る。
4月 秀吉・一益・長秀の三人の指揮で、蛇石を天守閣の敷地まで引き上げる、など。
5月 大阪へ出陣。 (vs本願寺)
7月 1日頃。信長の上意によって、名物「市の絵」を所持する。
11月頃 (信長、猪飼野正勝に命じて佐和山の大船を解体。丹羽さんは関係ない?)
12月 10日。信長、吉良へ鷹狩に。途中、佐和山に泊まる。
■1577年 天正5年
2月頃 雑賀へ出陣。 (vs本願寺)
3月頃 引き続き駐留。
8月 手取川の戦い。勝家が総大将。 (vs上杉)
9月 松永久秀謀反。信忠、討伐の軍勢を出す。
28日に安土の長秀のもとに宿泊。
10月 1日。信忠、安土から出陣。信貴城を攻略。
信盛・秀吉・光秀・長秀に夜襲させる、など。
12月 10日。信長、吉良へ鷹狩に。途中、佐和山に泊まる。
28日。信忠が安土へ。長秀の邸を宿所とする。
■1578年
1月 1日。安土の信長の元へ新年の挨拶に。朝の茶の湯に長秀含む12名が招かれる。
4日。信忠の茶道具を披露する茶会に長秀含む9名が招かれる。
4月 大阪・丹波へ出陣。信忠が大将。 (vs本願寺)
高倉山西国の陣。 (vs中国勢)
6月 神吉城を攻略。
10月 荒木村重、謀反。
11月頃 一益・光秀らと、茨木の城に対して砦を建設するよう命じられる、など。
12月 塚口の砦に布陣、など。
■1579年
4月 播磨へ出陣。
越前衆と、淡河の城に対峙する砦の構築を命じられる、など。
5月 11日。信長、安土城の天守閣へ移る。
6月 24日。信長、昨年長秀に賜った「珠光茶碗」を再び召し上げ、その代わりに「鉋切の銘刀」を賜る。
(長船長光の作)
9月 16日。一益と長秀、信長に馬を賜る。
27日。信長、伊丹を包囲する砦を視察。小屋野の一益の陣にしばらく滞在した後、
塚口の長秀の陣で休息、暮れ方に帰陣。
12月 伊丹城の人質を成敗。
信長、摂津の国で高い地位にいる者の妻子を選び出し、
一益・蜂屋・長秀の三人に預けて、磔にかけるよう命じる。
■1580年 長秀45歳
2月 27日。信澄・塩河長満・長秀に、兵庫・花熊方面へ出動し砦を作るように命令。
3月頃 3日。信長が視察に行こうとしたが、砦の建設はすでに完了していたので中止。
5月 7日。安土上下の掘割・船着場・道路とも、工事が完了。
長期にわたり工事に尽力した長秀・信澄に休暇を賜る。
信長から「領国で用務を処理したら、なるべく早く戻れ」との言葉あり。
■1581年
2月 28日。京都馬揃え。長秀は一番手を任される。
4月 16日。逸見昌経が病死。長秀が幼少の頃から召し使ってきた溝口定勝を
信長が召し抱えることにし、その跡目に任じる。
5月 槇尾寺を焼き払う。
その前に、槇尾寺の伽藍を、信澄・頼隆・堀秀政・友閑・長秀が検分、
建築用材として使えそうな所を解体して没収する。
6月 11日。越中願海寺の城主らを尋問し、その身柄を長秀に預け、佐和山に監禁させる。
7月 6日。信長の命で、石黒成綱らを長浜で切腹させる。
9月 信雄、伊賀へ出陣。長秀も従う。
10月 10日。信長、信忠・信澄を同伴して伊賀を視察。
一益・信雄・秀政・長秀らが競って、休息所や宿泊所を立派に造った。
■1582年
3月 5日。信長・近隣諸国の軍勢(長秀も)を率いて甲斐へ出陣。
19日。上諏訪に陣を構える。
4月 2日。信長、帰陣の途につく。
古府に到着した際、長秀・秀政・多賀常則に休暇を与える。三人は草津へ湯治に。
10日。信長、戦後処理を済ませて甲府出発。
21日。岐阜から安土へ帰陣する途中、諸将が接待。佐和山では、長秀が休憩所を建てて酒肴の接待をした。
5月 家康と梅雪が安土へ向かう。
14日。番場の仮の館で、長秀が、食事をととのえ一夜の接待をする。
同じ日に、上洛途中の信忠も立ち寄り、この時にも長秀が酒肴の接待をした。
20日。堀・長谷川・菅屋長頼と共に、江雲寺御殿で家康らの接待の用意を命じられる。
21日。家康、上洛。堺などを見物。案内役に長谷川。
長秀は、信澄と共に大阪で家康の接待をするよう命じられ、二人は大阪へ。
6月 2日。本能寺の変。

===

…以上です。

ちなみに、この「信長公記」の著者である”太田牛一”は
永禄12年(1569年)から天正10(1582)年にかけて丹羽さんの与力(右筆?)だった様で。
そんなに丹羽さんと近しい立場だったのなら、この本とは別に
丹羽さんに関するもっと個人的な出来事などもどこかに記しておいてくれれば
良かったのに…とか考えてしまいましたw

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自己紹介:
2012年頃から戦国時代に興味を持ち始めたまだまだ戦国知識初心者です。 気になってる武将:丹羽長秀様と織田家・北条家と風魔一族。

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