書籍の内容の雰囲気を伝えるために目次ページだけ画像上げておきます。
ちなみに、この目次ページの前には丹羽家第18代当主(現当主)様の
感想文が記載されてます。ご子孫公認の書籍なのです!
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とりあえず、
史実ぽいものと完全創作、両方まとめて列挙しておきます。
・全体的な丹羽さんの扱われ方:
「信長内閣の財政管理担当、大蔵大臣的存在。
信長領地の租税には総て関わっていた。また技術部長としての面もある」
・信長の父、信秀が死去した年(1551)から信長に仕えた。
・若年の頃に乗ってた馬は那須鹿毛や栃栗。
・信長と道三の会見時、帰蝶と道三も別の場所で会い、その時の護衛が長秀。
・村木城攻めの後に、信広の娘(名前は藤姫)と婚約。
藤姫は一年間、信長夫婦の元に預けられた後、結婚。
・その後、他家臣からも信長の姪婿だからと特別扱いされていた。
・尾張の年貢取り立てや賦役について関わる。
・小牧山築城時に秀吉は長秀の配下に。
・市姫が長政へ輿入れする際の護衛を親族代表として長秀が。
・濃姫は墨俣築城直前ぐらいに亡くなった。
(※丹羽さんと関係ないですが気になる説だったので)
・金ケ崎戦から岐阜に戻った時に正室の妊娠が発覚。
「(丹羽家の)子孫繁栄は丹羽家のものだけでなく織田家の喜びでもある」
のような会話。
・元亀元年(1570年)佐和山包囲戦中、「長重」誕生。
信長が名付け親。(この本の中では幼名が鍋丸であるという話は出て来ませんでした)
この時期にお鍋の方が信長の嫁となる。
・佐和山城を監視しつつも、織田領地内の産業振興にも力を入れる。
・比叡山焼き打ちには参加しなかった。
・佐和山城主になる。
信長の京都往復と浅井・朝倉征伐拠点としての役割を担う。
・高宮右京亮の処分の際、”最後の抵抗をしたので殺しやすかった”と言う長秀。
・1572年(三方原の戦い後?)。第二子誕生。女子。名前は「秀子」。
名付け親はまた信長。
・大船の建造。進行具合確認のため信長が佐和山に滞在してたのは
7月初めから完成(7/5?)までの間だけ。
この時の技術が後の本願寺攻めの際の九鬼水軍にも役に立った。
・天正元年。9/4に浅井・朝倉を滅亡させた祝の宴を佐和山で開催。
・お市を岐阜まで護送して、住居を増築。万福丸は丹羽家臣の戸田半右衛門が処刑。
(※処刑したのは秀吉というのが一般的だと思うのですが…?)
・10/27。長秀と秀吉だけ信長に呼ばれ、仲間が多数宿泊出来るよう
それぞれの居城の屋敷を広くするように言われる。
・蘭奢待切り取りの際、信長と共に同行した勝家や他家臣も途中佐和山に泊まった。
・1575年1月、秀吉と共に長浜と佐和山の中間地点に大兵站基地を建設するよう
信長から命じられる。
・この頃から長秀は次の信長の城の適地探しも命じられ開始。
その後、選定した3つの候補地から安土が選ばれる事に。
・年末に、長秀の家族や家臣のほとんどが佐和山へ引っ越す(それまでは皆岐阜に居た)
・1576年、安土築城開始。築城中は毎日のように信長と顔を合わせている。
・手取川の後に若狭国7万石を賜る。
・1575年12月。信長が名物の茶道具を信忠に譲る際の立会人に長秀が。
その晩に信忠が安土の長秀の屋敷に泊まる。
・1578年1/30。秀吉と長秀、信長と息子三人での夕食会に出席。
・2月末。安土に来てた勝家と会って、福井城の普請について相談を受ける。
・8月頃。早急に安土に土俵を作るように命じられる。その後相撲大会が行われる。
・村重謀反。塚口に陣を構えつつ、若狭の産業の様子を確認しに行ったり。
・1579年5月末。家族を若狭に移す。
・「少し前に信長から鷹をもらってた」という会話。
・韓国からの漂流者と出会う。
・10月頃。長門での大内とバテレンとの取引状況、生駒銀山、堺の外国貿易の状況の
調査に家臣を連れて自らが旅立つ。
・この頃に長重(7歳)をしつけのため若狭の戸田半右衛門の所に預ける。
・旅からの帰還後、信長より備前兼光をもらう。
・12月。村重一族処刑。長秀の所で預かってた者も含めてすべて、
前田や佐々がなどが処刑。
・1580年3/20から、生野銀山の調査や越前・加賀の鉱山の調査の旅に。
・その旅の途中で、金森長近の紹介で山崎山城の守の三女(名前:蘭)と
出会い、側室に。
(※この人が初めての側室という事になってましたがさすがにそれはないかと。
丹羽さんの側室の子は12人居るので、ここからその数生むのは無理が;)
・4/11ぐらいに佐和山に帰る。
・4/14~18、本願寺跡整備のための下見に。
・8月初め、長重と信長の娘が婚約。
・15日に織田信秀の法要に長秀夫婦も参加するように言われる。
・「過去に、北条家から信長への贈り物の黒鹿毛を長秀が貰ってた」という会話。
・1582年。本能寺の変。丹羽隊は統率がとれていたが、
信孝隊は信孝が頼りないために秩序がなく。
そこで信孝に愛想が尽きたので、後の清須会議で三法師を支持することにした。
・本能寺後の居城は坂本城。
・小牧長久手の戦い時に初めて秀吉に不信感を抱く。
・この時期に長重が元服、信長の娘と結婚する。
・1584年初め頃から下腹の痛みを周囲に訴え始める。
・1585年4月初め。痛みに耐えかね、小刀で肉腫を取り出し出血多量で亡くなる。
(胆嚢結石)
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気になるもの多すぎですかね?(汗)
でもそれだけ、他の書籍にはない
丹羽さん情報が多く書かれていたもので…。
改めて見ると本当に細かく丹羽さんの
人生を書き出そうとされているのがよく分かります。
信長公記の丹羽さん版と言っても良さそうな。
以上です。