「古典文庫 信長記(小瀬甫庵著・現代思潮社)」の
丹羽さんの名前が出て来る箇所のみ
読みましたので、例によってメモを残しておきます~。
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上下巻に分かれている書籍なのですが
下巻の最後に人名索引が付いており
ニワさんが出て来る箇所のみチェックがとてもやりやすかったですw
基本的には「信長公記(太田牛一著)」と内容は同じで
たまに、より詳しく書かれている部分がある、という感じでした。
その中で気になった記述と個人的感想を書いておきます。
・佐和山の城主になった時の話
「近辺五万貫の所領を与えられた」との記述。
>これはあまりにも多すぎるので一部の方からウソだと言われてるみたいですね。
・大船建造の時の話
「信長は秘かに長秀に大船十余隻を作るように命令。
長秀は昼夜問わず作業をし、造営を急いだ」との記述。
>「公記」では佐和山で船を造らせた、のみの記述でした。
こちらで丹羽さんに命令したって事が初めて確認できました。
・安土築城開始の話
「信長は天正4年の正月上旬に奉行として先ず長秀を遣わす事を決定。
長秀は17日に安土山に行き、職人や道具の手配など
昼夜問わずあちらこちらと駆けまわって作業を急いだ。
2/23に安土に移った信長は、精力的に励む態度が殊勝であると評価して
長秀に珠光茶碗と駿馬二頭を下賜した。」との記述。
>「公記」では茶碗のみだった所に馬ニ頭が追加されました。
今回は労いがあったから良いものの、
大船造営の時といい、丹羽さん大忙しで大変そうです;
常に信長様になにかしら用事を申し付けられ
四六時中パタパタ走り回ってる丹羽さんの姿を想像してしまいましたw
・天正6年正月、安土にて信長様の茶会に招かれた時の話。
「信長自らが出迎え、配膳も行い
その余りの出来事に食べた物の味が一切分からなかったと
後に語った人も居た」との記述。
>丹羽さんもそんな風に緊張してたんでしょうかw
・武田家を滅亡させた後の帰路の途中
長秀と堀と多賀の三人が草津温泉に行った時の話。
「公記」では、”信長に休暇をもらったから温泉に行った”という書かれ方でしたが、
こちらでは三人の方から”養生のために温泉に行きたい”と申し出て
信長に許可をもらった上に”黄金百両と馬の飼料”までもらったとの記述が。
>あの信長様に「温泉行きたいのでお休みください!」とか言い出せるとか
その三人は日頃から信長様から特別待遇を受けていたのか…
それともそんな事を言っても怒られなさそうだと思えるぐらい
お祝いムードだったのですかね。
信長様もおこづかいまであげて機嫌良さそうですw
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あと、公記に一切書かれてなかったエピソードも。
・足利義昭を伴っての初上洛前に会議。
佐久間・秀吉・長秀・恒興・林らが呼ばれた。という記述。
>柴田さんが居ないのは何故?
頭脳派の家臣のみ呼び集めたって事なのでしょうか。
・元亀三年頃。信長が鷹狩をしていた際に
里の長に先祖代々の土地を奪われたと泣いてる老婆と出会い
助けてあげようとして
それが事実かどうか長秀に命じて調べさせた。という記述。
>そんなちょっとした用事までさせられてたんですね。
丹羽さんになんでも屋みたいなイメージがつくのも良く分かります。
それとも佐和山であった出来事だったんでしょうか。
・「長秀の馬印は”絵鶴竹に金の短冊”」の記述。
>そういえば、丹羽さんの家紋である「X」の由来は
「馬印の短冊が落ちてXという形になってたから」という説もあるみたいですね。
・おまけ(?)として載っていた「道家祖看記」より。
今川義元を破った信長の元に朝廷から秘かに勅使が来て
それをまた秘かにもてなすために
森・柴田・長秀・秀吉・一益の5人を呼びつけて
食事会や舟遊びなどをしたという話が。
>これは完全に作り話っぽいというのをネットの某所で見かけました。
確かに勅使とはいえ、おもてなしのためだけに重臣全員集めるのも
おかしい気がします。
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以上です。
こちらの書籍は一部注釈があるものの
原文を書き下し文に変換しただけのものでしたので
誤って解釈してる部分もあるかも知れませんが
ご容赦くださいませ;