最近、「戦國ストレイズ」というマンガを読み始めたのですが
そこに登場する信長近習時代の丹羽さん
(メインキャラのうちの一人。しかも超かわいい!)を見てるうちに
その頃の実際の丹羽さんについて調べてみたくなりました。
※なお、考察中は読みやすさを考えて丹羽さんの事は
「長秀」と呼び捨てにしてます。
ごめんね、丹羽さん…。
===
■まず長秀が仕官する時の状況について。
家族と、他に関係が深そうな人物の情報を整理してみます。
家族の情報は”丹羽家譜”を、それ以外はwikiなどを参考にしました。
・丹羽長秀
天文4年生まれ。天文18年に信長に仕えて「五郎左衛門」と名乗るようになる。
・祖父:忠長
生没不明。斯波氏に仕える。それ以外の情報なし。
・父:長政
斯波氏に仕える。父を超える戦功を上げて封戸を増す。
斯波家が衰退し、その領土を治めきれなくなった時に、
長政はその領土の一部を侵略し、児玉村に城郭を築いてそこに住み、
その名が遠近に知れ渡るようになる。
能呂氏の女を娶り、三男三女を授かる。
天文18年4月14日死去。
・兄(長男):長忠
幼年、斯波氏に近仕し、早世。それ以外の情報なし。
・弟:秀重
生年不明。幼年は長秀の家臣となる。
・妹:3人居る。
後に全員織田軍団に関係する人物と結婚している。
・斯波家
尾張守護。昔は越前・遠江の守護でもあった。
義達の代に、今川氏親から遠江を奪還しようと出陣するも大敗(1515年)
その後義達は引退し、わずか3歳の子・義統が後を継ぎ、
清洲織田家の傀儡状態になり徐々に衰退。
しかし、1537年頃には尾張守護としての権勢を取り戻す。
1541年には越前奪還を計画したり、1544年には織田信秀の美濃攻めに協力したり。
(信秀・信長に対しては好意的に接していた様子。)
なお、義統は54年に清洲織田家に攻め込まれ自害。子の義銀が後を継いだ。
・織田信長
天文3年生まれ。天文15年元服、濃姫と結婚。
天文20年(18年や21年説も)に信秀が没し家督を継ぐ。
その前後に自身の手元に置いて自由に動かせる家臣
(いわゆる親衛隊のようなもの)を自ら集めていた。
***
以上の情報を元に当時の状況を想像(妄想)してみようと思います。
長秀が信長に仕える直前の丹羽家は、父親の行動を見るに
一応は斯波家臣という立場を捨ててはいなかったけど
そろそろ衰退する一方な斯波家を見限ろうかと
(勝手に領地を奪った所を見るに独立しようとも?)
迷っていた所ではないかと思います。
でも、立場上、また権勢を取り戻す兆しも見えた所から
長男の長忠はとりあえず斯波家に仕えさせたと。
*
ここで、長忠について少し考えてみます。
「幼年」「近仕」というワードがある事から小姓として仕えてた可能性が?
それ故、家に帰ってくる事も少なく、情報があまり無いのでは。
早世とありますが、「長忠」という名前が存在するということは
元服するまではとりあえず生きていたのでしょうか。
妹や弟が全員長秀に従ってる所を見ると、
当主として何かを成す事が出来る程は生きてなかったかと。
斯波氏による領土奪還や守護代との対立等の戦で亡くなった可能性がありそうです。
*
…で、次男(長秀)以降はどうするべきか…
斯波家はもうダメそうだし…と迷っているうちに、長秀が元服する前に父親が亡くなり、
(長秀の「長」は信長からもらった説を信じてみます。すると、”長秀”以外に元服後の
名前がない事から仕官前は元服してない事になるかと)
斯波家に仕えた兄も今後どうなるか分からない状況で、
実質、長秀が弟1人と妹3人を守っていかねばならなくなり
早く今後について決めないと丹羽家存続の危機もあるのでは
という状況に陥ってたのではないかと。
そこで、その時代に尾張で最も勢いのあった信秀にかけてみようと、
しかもその息子・信長が家臣を募集しているという噂を聞き、
自ら信長に志願しに行ったのではないかと思います。
…もしかしたら、信長の方からスカウトしに来た可能性もあるかも知れませんが、
(衰退した斯波家の影響で行き場を失ってる家臣はたくさん居そうだし
そこに信長が目をつけてた可能性が)
声をかけられるまで待ってるような受け身の人物を後々重用するとは思えないので。
なお、長秀父が途中から織田家に仕えた(その流れで長秀が信長に…)
という可能性は低いと思います。
そんな事をすれば、斯波に行った長男の身が危ういと思いますので。
個人的に織田家と交流があったという可能性はあるかもですが。
で、兄の死後、正式に丹羽家の当主となり元服もし、
そこで信長から「長」の字をもらって、長秀と名乗るようになったと。
(もしかしたら、兄存命中のうちに、信長の命令によって強制的に当主に
させられた可能性も。前田家の利家(4男)のように)
元服の儀は信長が行った可能性もありそうです。
■ここで信長仕官後の長秀について少し見てみましょう。
丹羽家譜からの情報です。
天文21年(1552): 萱津の戦いで功あり采邑を増し賜わる。(おそらくこれが初陣)
永禄3年(1560): 桶狭間の戦い。長秀先駆けして信長と共に新田に到る。
斬首若干、戦功群を抜く。信長、厚くこれを褒賞して過分の采邑を増し賜り、
母衣の騎士を預けられる。
永禄4年(1561): 美濃攻めで大いに戦功あり。
永禄5年(1562): 信長、長秀を召して、数面の武功を賞し郡邑一万貫を増し賜う。
以後、評定衆に加えられ、軍事民政を預かる。
その後、信広の娘を養女とし、長秀の妻にする。長秀、織田の一門となる。
…重臣への道、一直線ですw
一般的な信長親衛隊の出世コースとしては、まず選抜メンバー的存在「母衣衆」に
入れられ、そこからさらに昇進(利家・佐々・蜂屋などがそうだった)となるようですが、
その過程をすっとばしたか、
(桶狭間終了の時点でその母衣衆を預けられる程の立場に居た)
そもそも最初から親衛隊とは別の扱いだったのか。
とにかく別格扱いだった事は確かなようです。
これは「斯波家臣」だった家柄が関係してるのでしょうか。
一応、信秀・信長親子はずっと斯波を敬う態度をとってましたし
もしも、斯波の勢力が衰えず、長秀もそちらに仕えていたら、
守護の家臣である長秀の方が、守護代の家臣である信長より立場が上だったはず。
信長にとって長秀はそれなりに気を使う相手だったのかも知れません。
しかし、信長は基本、実力主義だし、その後の長秀の美濃攻めでの大活躍っぷりから
純粋に長秀の能力の高さを評価していたのかも。
弟&妹達のために多くの収入を得ようと必死でがんばっていたのかも…健気です。
或いは、その両方か…。
それにしても、評定衆(長秀以外は古くから織田家に仕えてる重臣ばかりと思われる)や
織田一門に加えられるというのは破格の対応ではないかと。
信長親衛隊の一番の出世頭は長秀で間違いないと思います。
ちなみに、他にこの時代から仕えて重臣となった武将として有名な
恒興(小姓)&一益(近習?)も母衣に入ることなく重臣になってます。
恒興は信長の乳兄弟で、一益は信長の戦略の要となる鉄砲の扱いに
長けていた(らしい)という事で
こちらは別格扱いになる理由はなんとなく分かる気がします。
なお、秀吉は1554年頃から仕官と、随分後なので
そもそも信長親衛隊の一人という扱いではないと思います。
(某番組でそういう扱いになってるのを見たことありましたが;)
===
とりあえず、今回はこのぐらいで。
丹羽さんに仕えた家臣の事について調べる事が出来れば
もう少し詳しく考えられそうですが、今すぐに調べる事が出来る情報では
これぐらいかと。
それにしても、将来性を考えての事とはいえ、
祖父の代から守護の家臣という名誉ある立場を捨てて
守護代の家臣になることを選んだ丹羽さん。
本能寺後に、織田家や丹羽家の今後のために
あえて秀吉の補佐のような立場に甘んじた時と状況が似てる気がします。
丹羽さんは生涯、自身のプライドなどより、力のある人を素直に評価し、
(力の見極めが出来る…世渡り上手でちゃっかりした部分もあったのかも・笑)
また身内の将来の事を第一に考えて行動するような性格だったのかも知れませんね。
それ故、実力主義で身内びいきな信長とウマがあったのかも知れません。
だから、重用されたり二代に渡って信長の姻戚になったり
「長秀は兄弟であり友」などの逸話が生まれたりする程の
親しい主従関係になれたのかも知れません。